映画で見る佐治波思想
今回は私が最も好きな映画の一つである「羊たちの沈黙」です。サイコホラーと思われがちですが、精神学の観点からものすごく奥深い作品だと私は思っています。
羊たちの沈黙
(原作:トマスハリス 1990年映画化)
女性を誘拐・殺害して皮を剥ぐと言う連続殺人事件の操作に、若い研修中の女性捜査官が、投獄中の精神科医レクター博士との駆け引きを通じて事件の解決に挑む。
※ネタバレを含んでいます。
まず私がこの映画の好きなのは、“始まり方”です。お洒落な映画なんかでは、始まりを綺麗に余韻を残しながら表現する事が多いですが、この映画は逆で、何かに急かされる様に始まり、(映画の挿入も含め)余韻のあるシーンは一切なくトントン拍子で進んでいきます。
訓練のランニング中で息を切らす主人公クラリスが、慌ただしく教官に呼ばれます。上官から「すぐに“ある男”に会うように」指示を受け、すぐにその男の収監された刑務所へ。
面接した刑務所の所長がクラリスを口説こうとするも、クラリスはアッサリ断り、断られた所長も何かを分かっているかのように、急ぎ足で廊下を歩きながら“その男との面会のルール”の説明… 次々にシーンは進んでいきます。
雰囲気が一変するのは、所長がその男の危険性を説明するところです。
地下の独房の入口で所長はクラリスに写真を見せて言います。
「これだけ警戒するには訳がある
1981年7月8日彼は胸の痛みを訴え医務室に運ばれた。心電図を取るために看護師が近づいたらこれだ…」
「医者が何とか顎を整形し片方の目だけを救った
彼が女の舌を食った時も脈は85以下だった…
…ここが監禁病棟だ」
それまで、とんとん拍子だった映画のテンポは、監禁病棟の不気味な赤い光の中、少しずつ余韻を残す様にゆっくりと…
一人で監禁病棟に入る前の監視室では、ピー、ピーという機械音が手術室を思わせるような雰囲気を醸し出し、はじめてゆっくりと主人公が周りを見渡すシーンに…
そして、クラリスは一人で精神異常者達がいる独房へ向かうのです…
そう、全てはこの男の登場シーンにつながるのです…
ハンニバル・レクター
天才精神科医であり人を食う猟奇殺人犯
アンソニーホプキンス演じるその異常な雰囲気は、牢屋の中にいるのになぜか恐怖を感じさせる。
(実際この後隣の囚人を言葉で殺します)
映画のキャラクターのランキングなどでは、必ずと言っていいほど上位にくる映画史に残る名悪役。
映画の冒頭に興味を持つと言うのはなんか変な感じはしますが、私はこの不穏な雰囲気で急かされるようにレクター博士の登場につながる流れがとても気に入っています。様々な映画・作品が、わざと余韻を残す様な冒頭が多いのに対し、速いテンポで雰囲気を演出するのは、逆にすごいですね。(伝わりやすいように、やや大げさに表現しており、実際の映画はさりげなさがいいのですが。。)
トラウマ
さて、映画の本題の話です。この映画は「トラウマ」をテーマにしていると言われます。実は作者はあまり表にでない人なので、詳しい詳細や意図については、分からない事が多く、以下は私の個人的解釈になるのであらかじめご了承ください。
「トラウマ」と聞いたらよほど辛い経験をした人、というイメージがあるかもしれませんが、決してそんなことはなく、むしろ誰でも多少トラウマを持っているのです。
主人公の女性捜査官クラリスは子供の頃唯一の家族だった父親と死別し親戚の牧場に引き取られるという辛い過去があります。そこで夜明け前、羊の鳴き声を聞き、恐怖を感じます。クラリスは子羊を1匹だけ抱えて牧場から逃げ出しますが、うまくいかず、自分は施設に送られ、その子羊は殺処分されたのです。
この出来事がトラウマとなり、FBI捜査官となった今、誘拐された女性を救う事で、トラウマ(自分の中の羊の鳴き声)が止む…という展開になっています。
クラリスは、ハンニバル・レクターとの駆け引きを元に犯人を追い詰める話なのですが、映画の中には明らかにクローズアップされるシーンがあります。私は何回もこの映画を見ているのでこのシーンの重要性が分かるのですが、恐らく1回見ただけではそのシーンの意味を理解する人は少ないでしょう。
そのシーンは、ハンニバル・レクターが移送される途中で臨時の牢屋の中に収監されてるところへ、クラリスが事件のヒントを求めて面会するシーンです。駆け引きで、ヒントを引き出そうとするも、レクターは殆ど何も語らず、逆にクラリスが過去の事を話して終わるという、???なシーンなのですが、この映画の中では明らかに雰囲気が一変し、強調されているのです。
事件のヒントを求めるクラリスに対し、レクターはじらす様に、話をそらします。そして時間がないクラリスに「君の話が聞きたい」と返してきます。一刻を争う状況の中、クラリスは仕方なく、自分の過去の話をします。
レクター博士
「君は10歳の時孤児になって、モンタナの母のいとこの羊牧場へ行った そして?」
クラリス「ある朝逃げ出したの」
レクター「ただ逃げ出したわけではないね 理由は?何時に逃げた?」
クラリス「朝暗いうちに」
レクター「何かで目覚めた 夢か?なんだった?」
クラリス「奇妙な音で… あれは 悲鳴だった 子供の声のような悲鳴」
レクター「君はどうした」
クラリス「私は 階下に下りて外へ出て そっと納屋に近づき 恐る恐る中をのぞいたの」
レクター「そこで何をみたんだ?」
クラリス「子羊よ 悲鳴をあげていた…」
レクター「子羊たちを殺してたのか?」
クラリス「悲鳴をあげていた」
レクター「それで逃げた?」
クラリス「子羊を逃がそうと ゲートを開けたわ でも子羊たちは全然逃げないの」
レクター「だが君は逃げ出した?」
クラリス「子羊を1頭抱えて必死で逃げたわ」
レクター「どこへ行った?」
クラリス「分からない 食料も水もなく とても寒かった 凍えそうに…」
ここで、微かに聞こえる風の様な音が少し大きく表現され、レクターを捉えていたクラリスの視線は宙を捉え、聞かれることに答えていただけのクラリスが、不思議と自ら話しはじめます…
クラリス「少なくとも1頭だけは助けたと思ったけど とても重くて ダメだった…」
「ほんの数キロ逃げて保安官に捕まったわ 怒った牧場主は私を施設へ送ったの」
「牧場はそれが最後…」
ここからは、BGMで強調されます。
レクター「君の連れ出した子羊は?」
クラリス「殺されたわ」
レクター「今でも時々目が覚める?」
「明け方に目が覚めて 子羊の悲鳴を聞く?」
クラリス「ええ…」
レクター「キャサリン(誘拐された女性)を救えたらもう悲鳴も消え 暗い明け方に目が覚める事もないと思う?」
「悲鳴に悩まされずにすむと?」
クラリス「分からない 分からないわ…」
レクター「ありがとうクラリス… ありがとう…」
そういうと、レクターは、まるでディナーの香りを楽しむかのように、その場の余韻に浸るように、満足気な仕草をします。
そこで、面会に終わりを告げる様に所長が現れ、結局重要な証言を得られないまま、クラリスは連れ出されてしまうのです。
夜明け前というのは、精神を安定させるホルモンが最も少なくなる時間であり、不安は眠りさえも妨げます。
また、トラウマは音の記憶と共に心の中に刻まれ、同じような音で何度も頭の中を過り、悩まされることになります。
羊は宗教的な意味を持ち、その泣き声の不気味さは夜明け前と共鳴するように、不安を駆り立てます。まさに、人の精神を描く完璧な題材で描かれた映画だと私は思います。
そして、このシーンの不思議な事は、結局レクターは何も言わなかったということでしょう。ただ最後に「ありがとう」とだけ告げるのです。
人は誰もが、心の中に“闇”を持ち、そしてそれを隠し続けているのです。
何かの音や匂いに敏感になり、辛い夜明け前を迎える、また、10歳前後という設定は、必ず思春期を迎える時に誰もが経験する不安定な時でもあり、…一見クラリスという登場人物の個人的な話の様にも見えますが、実は誰にでも当てはまる要素で描かれているのです。
夜明け前の目覚め… 焦り… 不安… 孤独… 頭から離れないな音…匂い…
更に、私が注目したいのは、レクターとクラリスのやり取りの中盤です。レクターの「殺していたのか」という質問にクラリスは「悲鳴をあげていた」と話を逸らすのです。それまでのストーリーでは、レクターのやや卑猥な質問にも、躊躇なく答えていた強気のクラリスがここで初めて話を逸らしたのです。
人は、何かに不安を感じたり孤独感、焦燥感に支配されると、敏感になり、周りがすべて敵の様に見えてしまうものです。
更に言えば、自分が憎んだ人が本当はそれほど悪くないという事さえも恐怖に感じ、そして心の奥底に押し込み、遠ざけ、そのことに苦しんでいる自分にさえ気づけず、誇りを必死で守っているのです。
あなたは、この物語が自分には関係がないと考えるでしょうか。
映画は、誘拐された女性をクラリスが救い出す事で、トラウマから解放されたかのように見えます。
でも、個人的には、この面会シーンの前後でクラリスに違いがあるように思えます。
この面会のあと、クラリスが空港を歩くシーンでは、何か肩の力が抜けたような感じがします。
例えるなら、
辛かった受験を終えた後の様な…
不安だった注射を終えた後の様な…
いつも険しい顔で、いきり立っていたクラリスが、面会後、友人と推理を進めるシーンでは解放された様に、思考を巡らせ事件の核心に迫っていきます。
つまり、この面会のとき、クラリスの中の子羊の悲鳴が、止んでいるように私には見えるのです。
言葉にすること
人は、感情を言葉にする事ではじめて客観的に自分を知るのです。そして知ることで、初めて大した問題ではないことに気づくのです。
ここで、Nervest kobe の著作より、一つ物語をご紹介します。
ある男性は、仕事に必死になり、気が付いたら40にもなるのに独身のままです。
そんな中、お見合いパーティーで知り合った女性と意気投合し、ようやく結婚かと浮かれます。
しかし、女性には離婚歴があり、小学校5年生の娘がいる事が分かります。男性は必死にこの子と仲良くなろうと試みるのですが、うまくいきません。少女は小学生とは思えないくらい礼儀正しく、かえってそれがバリアーの様にも思えてしまいます。
母親は我が子が誇らしいらしく、いつも自慢げです。
結局、女性とも気持ちが薄れ、別れることになります。男性はたまたま飲み屋でカトリック司祭と知り合い、自分の幼少期を思い出します。母親が熱心なクリスチャンだった事が自分にはあまりいい思い出ではありませんでした。
カトリックには「告解」というものがあります。「懺悔」と言った方が分かりやすいかもしれません。信者は、小さな告解部屋に入り壁と小窓で仕切られた向かいの部屋には司祭が入り、自分の罪や胸の内を告白するのです。そして、司祭は決まって最後に「あなたは許されました、安心してお行きなさい」と告げるのです。そんな昔の事を母親の事と同時に思い出したのです。
女性との関係は冷めきって、最後に家を訪ねた時、娘はむしろ少し警戒が解けているようでした。話題も娘の事が中心で、最近学校でいじめ問題があり自分の子供が加担しているのではなかという話題があり、母親は憤慨するように愚痴を言います。
母親が席を外した時、男性は何気なく少女に言います。「僕は今日限り」「もう会う事はない」
すると、娘はつぶやきます。「私…いつも先生に褒められるその子が羨ましかったの…だから…」
少女は今にも泣きだしそうな顔をしています。
男性は、その子を抱き寄せて「それでいいよ」とだけ告げるのです。
もう一つ、Nervest kobeの著作「theory of the nerve」より
100分の4~6の例え
人は誰もが、心の中に闇を持っています。それは自分や自分が愛する家族の誇りを守るために備わった重要なものなのです。他を憎む気持ちは裏を返せば大切な本能の現れであり必要なものです。人は様々な要素を兼ね揃えています。人の性質を100とした時、憎む気持ち(心の闇)はほんの4~6のどれかです。誰だろうと100分の4~6を出る事はありません。
自分の何かを隠そうとする人の心理はこうです。
「自分の中に人を憎む気持ち、恨む気持ちがあるのではないか」
「それは、あってはいけないこと」
「自分はいつも正義を貫いている」
「誰かはその様な心を持っていない。自分にはある?そんな訳ない。自分は正義を貫いている」
この様に考える場合人は、心に蓋をします。蓋を開けると自分の中の憎しみが100なのではないかと無意識に恐怖を感じ蓋を押さえつけています。これが「力み」の正体です。「力み」は人の人生の選択肢を大きく減らす壁なのです。
私からすれば、上の様な心理の人について、自分の中にあってはいけない「憎しみ」を100分の6持っていて、あの人は100分の4しかない、と恐れているようなものです。よく見れば大した問題ではなく、心は軽くなり、きちんと知ることで、100分の6の憎む気持ちは、100分の5か4へと急激に下がるのです。...そもそも気にする事ではないのですね。人を憎む心が少ない人は自分を冷静に見るから、気楽になって100分の4なのです。だから、自分の中にあるものを言葉(形)にし、きちんと見ることです。
それができたとき(力みが無くなったとき)、あなたには何が起きるでしょうか。
言葉(形)にしないといけない…
だいぶ話がそれましたが、映画も精神学も好きな自分にとっては、やはりこの作品は最高です!俳優の演技も脚本の奥深さ、それを引き立てる監督もどれをとっても素晴らしいものです。
ちなみに、この様なコメントは、やや映画の表現を大げさに言っている場合が多くあります。でも、素晴らしい映画とは、表現がさりげないものであり、むしろ物足りなさを残すくらいがちょうどいいのです。もし、この映画を見るなら、さりげなさを楽しむ感覚でみていただければと思います。
あなたの中の子羊は鳴き止むでしょうか。see you...